山一ハガネのルーツ

——— 一世紀の長きに渡る歴史が紡ぐのは、目の前のお客様の役に立ち、ともに成長するという理念

株式会社山一ハガネ
代表取締役社長
寺西基治

■そもそも“鋼”とは?

鉄を主成分とする素材には、鉄の中に含まれる炭素量の違いにより呼び方も変わってくる。
炭素含有量0.02%までのものが「純鉄」、2.1%までが「ハガネ」、2.1%以上が「鋳鉄」である。
炭素含有量2.1%を境界にして分けられるハガネと鋳鉄だがまったく性質が異なる。
鋳鉄は硬さはあるが、大きな力で叩くと割れる脆さがあるのに対し、ハガネは叩いても割れず、むしろたたいて形を成形することができるのだ。

そんなハガネの中でも、鉄に炭素以外のさまざまな元素を添加し、優れた特性を持たせた合金鋼が“特殊鋼”だ。
たとえば、マンガン(Mn)を加えると硬さと強度が増し、ニッケル(Ni)を加えるとねばりと高温下での強度がアップする。
さらにそれらに熱処理を施すことで硬さやねばりの特性を引き出すのだ。
このように、特殊鋼には添加される元素の配合や熱処理によって硬度や強度、ねばり、耐熱性、耐摩耗性など性質を変化させ、向上させる特質がある。

特殊鋼を用いた製品は私たちの日常生活の中にあふれている。
強度もあり、さびにくいステンレス鋼はシンクや包丁といったキッチンなどの水回りで役立ち、
熱に強く、耐摩耗性に加え靭性のある熱間工具鋼DAC(JIS規格SKD61)などのハガネはクルマのエンジン部品等の金型に。
磁性を持ったハガネはスマートフォンやタブレットなどの磁気記憶媒体に使用される。
また、近年の山一ハガネで言えばフィギュアスケート用のスケートブレード「YS-BLADES」も特殊鋼から作られている。
このように、特殊鋼は意外と暮らしの中に溶け込み、生活を支えているのだ。

特殊鋼を用いた製品は日常生活の中にあふれている


■「山一鋼商店」創業

山一ハガネの創業者・寺西國一は自らを“ハガネの園に生きる雑草”に例えた。
明治、大正、昭和という激動の時代を生き抜き、ゼロから興した会社を成長させた。
踏まれても踏まれても起き上がる雑草のように、たくましく生え続ける雑草のような不屈の精神は山一ハガネに今も脈々と受け継がれている。

創業者寺西國一が残したノート

國一は1901年(明治34年)現在の愛知県あま市七宝町で貧しい小作農の四男として産声をあげた。
國一は忍耐強く体力もあり、学業も優秀であった。
「(小学校成績は)入学時が最高で以降下がり放しの為尋常科3年生の修業時は修了證書1枚と言ふ惨めさに泣きべそをかき発奮し、四年生には群役所より表彰を受けるほどに上達した」と遺稿にあり、負けず嫌いでもあったようだ。

1918年(大正7年)17歳で社会人となった國一は名古屋市内で、でっち奉公をし、北海道の金物店に勤めた後、当時名古屋に一軒のみであったハガネ専門会社に就職した。不平をこぼすことなく実直に働き、ハガネ商売のイロハを覚えていったという。
しかし、この先ずっと会社員でいることに不安があった國一は、自身の力を試したいという思いも強くなり、1927年(昭和2年)8月に独立した。

———「山一鋼商店」これが山一ハガネの始まりだ。

創業当時の山一ハガネ(当時は山一鋼商店)


■戦前の鋼ビジネス

自動車どころかオートバイもない時代。
時には300~400㎏ほどにもなる重いハガネをリヤカーに載せて、天秤棒で担ぎお客様の製造機械の側まで運ぶところから始まった。
当時からハガネは量り売りが主流で、“重さをごまかすことが普通”といった業界だったが、「当業界のインチキ商売は目に余るなり。」と、國一は良心的な商売を心掛けた。こうして客先とも仕入れ先ともギブアンドテイクの精神を大切にした結果、得意先が得意先を呼ぶ連鎖反応へとつながった。
「山一鋼商店」は順調に滑り出したが、とにかく多忙であった。
ハガネは今も昔も、客先の必要な寸法に切り出して売る。毎晩10時頃までハガネの切り出しを行い、翌日の午前中に配達を済ませ、午後に御用聞きに回る。
國一は、特に時間のかかる切り出しをなんとかしたいと考え、1928年(昭和3年)モーターで動く金属切断機を自ら設計し作製した。これがあまりに使い勝手がよく、「自分の店用だけにしていてはもったいない」と、モーター付きで販売すると、鉄工所などに飛ぶように売れた。総販売数は3年間で500台以上。広告もカタログも一切なしに、である。お客様の生産性向上に貢献したいという國一の思いは、今も山一ハガネに受け継がれている。

ハガネの販売も興隆を極め、重たい材料を運ぶ従業員のためにと配達専用に当時愛知県で初のオート三輪車を購入。
さらに1938年(昭和12年)頃には日本初のドイツ製ソルトバス式熱処理炉を購入した。そして、名古屋市東区で航空機を製造していた会社に熱処理を施したハガネを納めていたのだ。
当時、国内に2台しかない熱処理炉を一目見ようと、大手製鋼会社の技術者がこぞって訪れた。この時のことを國一は「応接のため仕事にならず。ただし高級ハガネの受注はほとんど独占状態にあったことは、うれしき限り。」と書き残している。

創業者寺西國一。当時名古屋でも珍しい自動3輪車をいち早く導入


■戦後の山一ハガネの夜明け

1945年(昭和20年)5月、空襲によって住宅と倉庫2棟を全焼したが、逆境でもへこたれない強さが國一の持ち味である。
終戦後すぐに社名を「山一産業合資会社」と改称すると、焼け跡にポツンと残っていた熱処理炉を売り払い、会社復興に乗り出した。
國一は焼け野原の中でも、JIS規格のついた一級品を取り扱うことにこだわった。

そして1948年(昭和23年)日立金属安来工場の特約店となったことを機に「山一ハガネ」と社名を変更した。
当時本社事務所を構えていた昭和区高辻から中区金山に向かう通りには、ハガネ屋や鉄鋼屋が軒を連ねていた。工具鋼なら工具鋼だけに特化した商店が多いなか、工具鋼から二次製品まで全般を扱う山一ハガネは、さながら特殊鋼のデパートのような存在だった。しかし、低級品は一切扱わなかった。
これまでの経験から、「利益の過小なりとも一級品を適正マージンで扱っていれば、流通機構の一員として生き残りうる」と考えたことが、その背景にある。

1948年社名を変更した当時の山一ハガネ


■好景気を味方に経営体制を盤石に

その後、日本は高度成長期を迎え、モータリゼーションの時代が到来する。
オートバイや自動車の生産には当時から特殊鋼が不可欠だ。山一ハガネは、部品となる生産材とパーツを作る金型用鋼の両面で大いに売り上げを伸ばした。

1975年(昭和50年)國一が会長職に、長男の國宏が二代目の代表取締役社長に就任した。

このころ、オートマチック変速機の留め輪として用いられる異形線を扱い始めると、月間22~23tの販売量を計上した。これは今なお、主力製品のひとつとなっている。
取り扱う鋼種が増えるにつれ、保管スペースが足りなくなり、倉庫増設の必要に迫られた。
そこで國宏は、社長就任前から業務拡大を見越して購入していた名古屋市近郊の広大な土地に1985年(昭和60年)本社事務所と倉庫を新しく新築移転した。こうして、現住所での営業がスタートした。
この時、自動ラック倉庫を導入したことで、省スペース化と在庫管理の効率化の実現につながり、その後の発展にも一役買っている。

省スペース化と在庫管理の効率化を実現した山一ハガネの自動ラック倉庫

1990年(平成2年)日経平均株価が大暴落。バブル崩壊である。
倒産に追い込まれた同業者もあったが、山一ハガネにおいては盤石な経営体制が整っていたおかげで、人員削減も賃金カットも回避できた。
1995年(平成7年)國宏が会長職へ、三代目代表取締役社長に土屋恭一が就任した。
土屋は社会の動きに敏感に反応し、それまで電話と紙というアナログ業務を行ってきた山一ハガネに、ホストコンピューターを導入。
予算管理や在庫管理をシステム化し、作業効率を大きく向上させ、後に四代目となる寺西基治への事業承継に大きく貢献した。

■21世紀ファクトリーモールの実現とこの先の未来

1999年(平成11年)現社長の寺西基治が四代目代表取締役社長に就任した。
基治は、これまでの経営から発想の転換を図り、新たなチャレンジを目標に掲げた。
独自の販売在庫管理システムの構築に着手すべく、基幹システムの「Method」を導入。
翌年にはグループ会社として機械加工を専門とするダイテック(現・HCPダイテック )を設立。また、2002年(平成14年)には鋼材自動切断システム「KV3」を導入するなど、積極的に設備投資を行った。
革新していくにあたり、基治がこだわったのは「スピード」と「クオリティ」だ。
一層厳しくなる価格競争に向け、業務効率を上げ、品質と納期でお客様にご満足いただく。
その実現に、「Method」や「KV3」の導入は大いに威力を発揮した。
その後もとどまることなく挑戦を続けた。

現社長の寺西基治

2008年(平成20年)リーマンショックの打撃を山一ハガネも受けた。
急激な円高で自動車市場をめぐる環境は厳しさを増し、国内自動車メーカーは一様に大幅な減産へと踏み切った。当然自動車部品の需要も激減し、その余波はサプライヤーを直撃した。山一ハガネにおいても、在庫が大幅に増加。販売価格の急激な低下と売り上げ激減という厳しい現実に直面したが、人員削減はなんとか免れ、ボーナスや役員報酬の大幅カットにとどまった。

先が読めない状況のなかでも、基治は前向きに粘り強く挑み続けた。社員と“Let’s Begin!”の志を共有し、材料調達から切断、熱処理、仕上げ加工、物流までをワンストップで行う「ファクトリーモール」構想の実現に向けて邁進した。

2010年に同時5軸マシニングセンタとジグポーラーを、翌年2011年には高度測定機であるLeitz社の「PMM-C」を導入。また、民間企業初となるISO17025認定を取得し、技術開発センター・AEROVの計測技術室は国際的に通用する試験所として認知されていく。

2012年、山一ハガネは念願だったブランディング経営に乗り出す。
付加価値の高いサービス提供とものづくりを通し、山一ハガネの信頼性の向上を目指した。それからの快進撃が目覚ましい。
熱処理事業部では金型の経年変化をおさえる技術「LSP処理」を開発。
世界最高レベルの環境と設備を誇る技術開発センター「AEROV」の設立によってファクトリーモールがいよいよ実現。
また、海外拠点であるタイの販売現法設立、ベトナムの工場立ち上げや、3Dプリンター等のAdditive Manufacturing(AM)事業もスタート。

ものづくりにイノベーションを起こす山一ハガネのAM(Additive Manufacturing)技術


基治がこだわるのは、他社が真似をできない、「山一ハガネでしかできない」という価値だ。
世界の大舞台でメダル獲得という結果を出したYS-BLADESをご覧いただければ、そのこだわりがご理解いただけるだろう。

基治が山一ハガネにしかできない価値にこだわり続けて完成させた「YS-BLADES」

山一ハガネは創業以来、困難があっても立ち向かい、目の前のお客様の役に立つ「お客様第一」の精神で独自の価値を創出してきた。それを実現するために基治が誓ったのは正道を歩むこと。正しき道を貫き、お客様とともに成長する未来を目指し続けている。

“目の前のお客様に堅実に。”
正道を歩みながら山一ハガネの持てる力をフルに発揮し、情熱と信念を持って、山一ハガネでしかできない価値を追求していく、基治はそう力を込めて語った。
「Let’s Begin!」山一ハガネの挑戦は続いていく。